愛 その二(御木徳近教祖)
愛される愛
人間というものは、自己表現の生きものである。自分を現わすところによろこびがある。
人がダンスをしているのを見ているより、自分も仲間に入って踊ったほうがたのしい。
知識や技術を習得したときもうれしいが、それを活用したときのほうが、よろこびは大きい。
夫が愛する動きをするとき、妻がただ漫然とその愛を享受するだけでは、それは人形と大差はないだろう。夫が愛してくれるのを待っているのと、変わりはない。それは愛情こじきである。
(愛してほしい)
とは思っても、
(愛される妻になりたい)
とまでは思わない妻である。
男はそういう妻を愛して、じゅうぶんな満足が得られるだろうか?
女の愛が燃え、男の愛する動きと合一するところに、最高のよろこびがあるのではなかろうか?
見ているダンスより、自分で踊るダンスがよりたのしいのと同じように、女はその特性であるところの、愛される動きをして、愛されたときのほうがよろこびはよりふかいものである。
それは、そこに自己表現がともなっているからなのである。
「愛」とは、対象がもつ働きをもっとも美しく生かす働きかけのことである。
「愛する」ということは、いつくしむ、あわれむ、尊ぶ、理解する、かわいがる、美しむ心を対象にそそぐことであって、親子、夫婦、兄弟、男女、朋友、隣人、村落、グループ、組合、団体、社会をはじめ動物や植物にまでおよぶことである。
これは、より大きな愛「人類愛」を前提とするものであることは言うまでもない。
御木徳近著「愛」より